10年目の傷跡

最近、父の調子があまり良くないと母から連絡が入ります。私が小学3年のとき、父がもがき苦しんだ姿を見ています。その時は、私は家に残り、母は救急車を呼び慌てて病院へ。母の話によると、町の病院では、対処できず、県の病院まで行った。

そして昨日、「明日、検査だから病院へ行く」と連絡が入りました。

そして、今日。工学基礎実験の集まりがあったのでポスター描きをメンバーでやっていたところ、心配になって携帯で連絡をとると、
父「病院行って検査したとたん入院だって」
父は、明るそうにそういいました。
一方、家族である私からすれば、とんでもないことです。とりあえず、工学基礎実験のメンバーがプロジェクトメンバーであるので事情を話し、実験とプロジェクトを休み貰って帰省することに。
刹那。既に用意はできているんです。父が体調の悪いと連絡受けたときから帰省準備を。まず、自宅である大学指定アパートまでチャリ移動と同時に携帯で母と連絡。状況は、入院したことくらいで、とにかく私は帰省することを告げました。

電車の中で母から携帯で連絡が入るものの車掌に見つかり切ることに。

駅につき、すぐに駅から病院まで走りました。課題レポートが数枚入っただけのカバンを片手に全力疾走し、病院へ。病院の受付で父の部屋番号を聞くとすぐに駆けましたが、1階に母がいます。
俺「え・・・?」
そこは・・・
そこは手術室の前でした。
母から状況説明。電車のときにコレをいうつもりだったらしいです。いきなり手術することになったことを。

手術室の前で、ただ・・・ただ待つしかなかった。
流石に疲労で眠りに意識が飛びかけたが、そのとき手術室のランプが消え、手術室の中へ。
昔、小学生の私では入れなかったこの場所。母と状況を聞くことに。
一応、手術したことで急死することはなくなったらしい。ただ、危険なのはかわりなく、危険性のある箇所が他にもいくつかあり、そこは今回手を入れなかった、と宣言された。でも、これだけは何度も言われた。「いつ急死してもおかしくなかった」と。

前のときは「1秒でも遅かったら助からなかったかもしれない」だったと母は言った。それに比べれば確かに嬉しいことなのかもしれない。

手術が終わり、部屋へ運ばれる時、親族関係が来た。誰だって心配ですよね・・・

そのまま父が運ばれた場所は、4人部屋ではなく集中治療室。小学校の時、このドアより先へは入ってはいけないと看護婦さんに言われ、触れることすらできなかった部屋だ。消灯時間がすぎ、薄暗い部屋になっていた。私は、父が目覚める前に家族待機室へ。
家族待機室で待つこととなる。母は、俺に家族待機室で連絡が来るかもしれないことから居残りを頼み、入院用の用具を家から取りにいくといい、すぐに車で行ってしまう。当然といえば当然か、検査のために病院へ来たはずが入院であるわけなのだから。
家族待機室では、他の家族が寝ていた。こんなことにいたくないとすぐ近くの休憩室で待つことに。夜食に、と父の親族の方々・・・親戚から頂いたコンビニの食べ物があったので飢えをしのいだものの、夜景を見ながら寝るわけにはどうしようもない状況であった。